観音山 銀竜草の財賀寺から

 登山口である財賀寺参道にはあちこちにギンリョウソウが咲いていました。
【山 名】観音山(かんのんやま) 標高約410m
     平尾山 300m
【山 域】東三河(三河山地・豊川市北部山地) 本宮山県立自然公園
【所在地】愛知県豊川市財賀町・千両町・宝飯郡音羽町萩
【山行日】2005年4月17日(日曜日)
【行 程】財賀寺から
  自宅 ==== 財賀寺駐車場 ---- 本堂 ---- 稜線上分岐点 --
                  11:56       12:48      12:55
  -- 分岐 ---- 観音山 ---- 分岐 ---- 本堂 ---- 財賀寺駐車場 ==== 自宅
    13:16    13:23-13:45   14:03    14:25      14:41
【所要時間】2時間45分(含休憩)
【標高差】約300m
【天 候】快晴 23℃(下山時)
(4月17日13時新城の気象庁データ:気温23.5℃、風速6m/s、風向:西)
【地形図】1:25,000 御油(ごゆ) 平成7年修正測量
【スタイル】化繊ズボン、綿100%Tシャツ、ミズノ運動靴、MILLETザック、
      デジタルカメラ:MINOLTA DiMAGE7(首に下げて歩く)
 土曜夜は飲み会があり、帰宅したのは深夜2時頃。寝たのは4時頃だったか。4時間ほど寝て目が覚めた。
少しぐらい歩きたい。宮路山にしようか、とも思ったが、たまたま頭に浮かんだのが観音山。コバノミツバツツジで有名な善住禅寺も考えたが、天気もよく、混んでそうだし、行くなら新聞にも載っていた背戸山とセットで行きたい。でも、その背戸山がどこにあるのか、しっかり下調べもしていないから、また来年以降にしよう。
観音山にもミツバツツジぐらい咲いているのではないか、また何か他にも花が咲いているのではないか、どんな花が咲いているのだろう、と考えると、ますます観音山に行きたくなってきた。

 観音山に登るのはなんと12年ぶり2度目。12年前は会社の寮から麓まで確か6kmほどをランニングしてそのまま山頂まで登り、山頂に着いたらスズメバチに威嚇されて、そのまま休憩もできずに退散し、また道路を走って帰ったのだった。手ぶらでお金も持っていなかったので水1滴も飲めなかったのがつらかった。そんなあまりいい思い出ではなかったから、近くにありながら12年も登らなかったのかもしれない。
 でもそれだけではない。次回登るときは駒場調整池からにしようと思っていた。しかし、その駒場調整池の登山口がよくわからなかったのだ。駒場調整池へは、車やランニングで何度か行っているにも関わらず、いつもその登山口がわからなかった。そして今でもわからないままなのだが。
 では、その登山口へのこだわりもなくなったのか。いや、そうでもなく、実は財賀寺(ざいかじ)から登る理由が見つかっていたのである。12年前は、室町時代に造られたという虫食いだらけの仁王門があった。そして、平安時代のものだという仁王像は昭和56〜59年に修復してみたらその門に入らない身長になってしまったという理由で奈良の国立博物館に預けられていた。そして1996年10月から1998年10月まで2年の歳月を費やして仁王門を修復して仁王像が入るようにしたのである。その修復後の仁王門(国指定重要文化財)と帰ってきた仁王像(木造金剛力士像)(国指定重要文化財)を一度は見ておくべきだろう、とそんな理由があったのだ。まあ、これも何年も前の話なのだが。

 まあ、理由はいい。とにかく、ふと観音山が思い浮かんでしまったのだ。こんな感じで登る山を決めてしまうのはよくない? とんでもない。最高の決め方であると私は思う。前もって決めていてそれに向けて準備を怠りなくするのは、あまり好きではない。いざ出発するときには義務感が芽生えていたりする場合があるのだ。一人ならまだいい。嫌になったらやめるだけのことだ。複数だと、断るにもそれなりの理由がいるし、相手にも悪い。
 ただ、遠方に行くとか、レベルの高いところに行く場合にはそれなりの準備はいるし、トレーニング段階から計画的に行わなければならないこともある。そんな場合は気合を入れなければならない。もっとも普段から遠出の準備ができていたり、普段からそれなりのトレーニングをしていれば、その境界が変わることはあるが、不精なのだからどうしようもない。

 さて、12年前に足を使って走った道を車で走る。財賀寺は意外に遠い。よくこんなにも足で走ったものだ、と我ながら感心する。財賀寺に着くと、何台かの車が止まっていた。交通整理もしている一人の男性が話しかけてくる。私が首から下げているカメラを見てか、ギンリョウソウが咲いているという。そして駐車場脇のギンリョウソウを教えてくれる。こんなところにも咲いているのだ。ついでに仁王像の説明もしてくれる。しかも指し棒まで用意している。ありがたく話を聞く。目が寄っているのが特徴だとか、運慶は修復をしたが、作者は不明だとか、関取の貴乃花が来たとか、これらの話は聞いたことがあったと思うがほとんど忘れていた。



修復された仁王門(国指定重要文化財)



阿形

 仁王門をくぐり、石段を登る。脇にはヤマモモだろうか、かなりの老木に見えるものがある。途中で一旦、文殊堂方面に向かう。そっちへ行っても稜線に出れるだろうと思ったからだ。舗装道を離れ踏み跡を行くが、途中で消えてしまった。戻ってまた参道を行く。本堂(観音寺?)まで登り、一応お参りをして左へ。ここから稜線をめざす。歩き出してから小一時間も経っていた。



石段の参道



本堂。左は大師堂。

 財賀寺は724年、聖武天皇の勅願により行基が観音山に開き、813年、弘法大師(空海)が再興し、1192年、源頼朝が現在の場所に再建したという、そうそうたる名前が連なっている。

 踏み跡はしっかりしている。豊川市財賀町と音羽町萩との境界でもある稜線に出ると「豊川自然遊歩道」の道標があった。ここは財賀町の白川と萩の山陰川との分水嶺でもある。山陰川は赤坂で音羽川に合流する。白川も三河湾に出る手前で音羽川に合流する。稜線を進むと古びた豊川市内展望図のある場所に出た。標高300m付近で平尾山とも言うらしい。ベンチもあり休憩してもいい場所だが、山頂は近いだろうとそのまま進む。財賀寺へのもうひとつの分岐を過ぎ、登りの傾斜が増す。それを登り切ると観音山の頂上に着く。汗を拭う。ここからも南側の展望が得られる。以前はここに寺院があったという。山頂から東へ流れる水は佐奈川となり直接三河湾に注ぐ。

 下りは最初の分岐を左へ行く。そのまま林道になるが、途中から本堂への踏み跡に入る。本堂には登るときにはいなかった人が何人もいた。横の大師堂にも人がいた。今度は文殊堂に寄る。ここは賑わっている。バスツアーも来ている。子連れの家族もいた。
 文殊堂の由来は、永延年中(西暦987年〜989年)三河守大江定基が赤坂の長者宮路弥太郎長富の艶美な娘力寿を妾としたが、病死され、霊夢により、力寿の舌を切り埋め文殊菩薩を安置したという。定基は出家し寂照と称し、修行し宋国王から円通大師の称号をもらった。以来、智恵文殊として学力増進、技芸上達等の祈願に参詣する者が多いという。

 帰りはコバノ?ミツバツツジに誘われて、千両(ちぎり)に抜ける道路を走って帰った。
観音山中にはヒノキの植林が部分的に多く、登っている途中でも花粉症の症状が出てつらかった。

 見かけた花
 ギンリョウソウ、ムラサキケマン、ヤブツバキ、シャガ、シャクナゲ(植栽)、シキミ、キランソウ、タチツボスミレ、スミレ、ニオイタチツボスミレ、マキノスミレ、ニガナ、ヒメハギ、カタバミ、ヤマツツジ、ミツバアケビ、サルトリイバラ、モミジイチゴ?、クロモジ、ヤマザクラ、スルガテンナンショウ、コバノミツバツツジ


 【観音山が紹介されている本】

『やぶ医者のやぶ山あるき 三河の山々』(毎日新聞名古屋開発)2000年5月発行
  財賀寺から周回。財賀寺の歴史にも詳しい。

『こんなに楽しい愛知の130山』(風媒社)1999年10月8日第1刷
  財賀口からの周回ルートが紹介されています。

『こんなに楽しい愛知の100山』(風媒社)1991年5月1日改訂第1刷
  文殊堂横から駒場池まで。
『分県登山ガイド22 愛知県の山』(山と溪谷社)1995年9月25日初版第1刷   平尾からの道が紹介されています。 『ワンデルングガイド10愛知県の山』(岳洋社)平成4年6月13日2版発行   財賀寺から駒場池へ。平尾山の記述もある。 『新編 豊川市史 第十巻 自然(豊川市)平成10年3月31日発行   財賀寺のギンリョウソウなどが紹介されている。

Wander!地域別季節順

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送