鳶ヶ巣山・乗本万灯山へ下る

 長篠の戦いで有名な鳶ヶ巣山と、地形図には記載のないもう一つの万灯山に登り、否、下りました。
【山 名】鳶ヶ巣山(鳶が巣山、鳶の巣山) 150m
     万灯山(乗本万灯山、万燈山)(まんどうやま) 100m
【山 域】弓張山地(東三河)
【所在地】愛知県新城市
【山行日】2007年1月14日(日曜日)
【行 程】上部の駐車地から往路下り
  大平登山口 ==(5.5km)== 鳶ヶ巣山駐車地 ---- 鳶ヶ巣山 ---- 駐車地 ---- 鳶ヶ巣山 ---- 万灯山 --
       14:13             14:31-                                                      14:59-
  -- 鳶ヶ巣山 ---- 駐車地 ==== 喫茶店 ==== 豊川(帰路合計:29.3km)
                   15:25                  17:15
【所要時間】約50分
【標高差】約50m
【天 候】快晴 8℃(歩行開始前)、8℃(15:25)、7℃(帰宅時)
 1月14日15時新城の気象庁データ:気温9.2℃、風向:北西、風速5m/s
【人 数】3人
【地形図】1:25,000 三河大野(みかわおおの)(持参せず)
【スタイル】ミズノ ウォーキングシューズ "FREEWALK"、薄手ショートソックス、眼鏡、
 PHENIX化繊ズボン(中国製)、綿100%Tシャツ(MADE IN AUSTRALIA)、綿100%長袖シャツ(中国製)、
 TARAS BOULBA(アシックス)POLARTEC(ポリエステル100%)SERIES200フリース(昼食時のみ)、
 腕時計(CASIO TWIN SENSOR)、デジタルカメラ:MINOLTA DiMAGE7(首に下げて歩く)
【所持飲料】なし
 常寒山から下山し、体力的にも時間的にも多少余裕があるので、簡単かつ気になっていた万灯山に行こうということになった。じつは、常寒山に向かう朝にも、万灯山の話題になり、三河であちこちに出向いて仕事をしていたSさんが、万灯山は二つあるのだという話を聞いたという。以前は、一つでもっと高いところで灯を灯していたらしいが、二つに分かれたのだという。「もっと高いところ」は舟着山だろうか。以前には山頂で灯が焚かれたと言います。常寒山も夏に山頂で祭りが行われたといいます。

 別所街道沿いに、万灯山の道標があり、以前から気になっていた。この万灯山はどちらの万灯山なのだろうか。常寒山方面から来ると、鋭角気味に左折することになる。後ろからの車をやり過ごすためにも、一旦すぐ先で右の橋になっているところに入る。ここは牛淵橋と言い、長篠城址の近くで、豊川と宇連川の合流地点付近でもあるようです。切り返し、万灯山方面へ進む。かなり狭い登り道で、車の障害物センサーが反応するほど。Sさんもここには来たことがないらしい。

 道なりに進むと案内板があった。「鳶ヶ巣山案内図」となっていて、万灯山はなぜか載っていない。ここに駐車スペースはあるが、満車で駐車できないし、駐車場は先にあるらしい。でもここから道は左右に分かれていてどちらに進めばいいかわからない。右は急な登りで行き止まりのようにも見え、一旦左に行き、人がいたので、聞いてみると、右に登っていくのだという。バックし、右の急坂を登る。すると道はずっと延びていた。

 山道のようになり、道路の分岐地点が広くなっている。ここが駐車場なのだろう。1台も駐車車両はない。近くに金刀比羅神社と書かれた鳥居と石碑があるが、ここは鳶ヶ巣山ではないようだ。看板があり、「鳶が巣山300m→」の道標があるが、万灯山は文字だけでどこにあるかは不明。とりあえず鳶ヶ巣山に行くことにする。



駐車場所付近にある金刀比羅神社



駐車場所脇にあった看板

 「鳶ヶ巣山」は「鳶が巣山」と書かれていたり、ネットで見ると「鳶の巣山」、「鳶の巣文殊山」とも記載されていて、三遠国境にある「鳶ノ巣山」と紛らわしい。そのためかどうか現地では、「の」や「ノ」の表示は個人の取り付けたものを除いて見当たらず、「が」か「ヶ」になっていました。

 なだらかに下る車道は車でも通行できそうだが、看板には、車の通行はできないと書いてある。しばらく車道を行くと右手にありました。ピークではなく、尾根の平らな部分という感じの場所です。この陣地は、1575年(天正3年)の長篠の戦いにおいて、とても重要な場所です。

 武田信玄病死後、徳川家康方に寝返った奥平信昌の長篠城を包囲した武田勝頼軍の陣地の本砦で、他に中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君ヶ伏所(臥床)砦の4つの砦があったのだそうです。武田の大軍に対して、長篠城はほんの500名ほどだったといいます。この包囲を脱出して岡崎城の家康に援軍を要請したのが、鳥居強右衛門です。名古屋出身の私はこの名を東三河に来るまで知りませんでしたが、東三河では学校で習うほどの有名人らしいです。彼は長篠城に戻る前に武田軍に捕らえられて磔にされました。JR飯田線の駅にも鳥居駅があります。ちなみにその隣が長篠城駅で、もう一つ隣が本長篠駅です。

 信長軍、家康軍が設楽原に到着し、信玄の弟である武田信実が主将を務める鳶の巣砦攻撃への奇襲作戦が開始されます。この作戦は旧暦5月20日夜の軍議において、酒井忠次が信長に提言したといいます。この夜、舟着山と常寒山との間にある松山峠を越えて、翌21日朝、鳶ヶ巣砦など5砦を攻撃し、成功を収めたと言います。ここには関ヶ原の戦いで東軍に与し、初代高山藩主となった金森長近も加わっていたそうです。信長の一字をもらったという彼の騎馬像は、城山にあります。

 この奇襲は成功。決戦である設楽原の戦いも同じく旧暦5月21日。新暦では6月29日。梅雨の真っ只中ですが、この日は雨が降らず、鉄砲が使用でき、信長・家康連合軍が勝利を収めたため、長篠の戦いは鉄砲のイメージが定着したのだと言います。大敗した武田勝頼は高遠城に退きますが、その後、武田氏は急速に衰え、滅亡に向かいました。鳶ヶ巣砦跡には「天正の杉」と呼ばれる倒木が横たわっていました。



天正の

 さて、万灯山はどこだろう。何の表示もない。車道の先は急な下りになってしまっています。この急坂があるから、車の通行は禁止しているのだろうか。一旦戻ることにする。駐車場所の反対側かもしれない。そして、戻るとジョギングしている人がいたので、聞いてみる。すると、鳶ヶ巣山よりも下だという。大した距離でもないだろうから、また鳶ヶ巣山方面へ下ることにする。それにしても、二つの山へ行くのにどちらも登りではなく下りとは。

 鳶ヶ巣山を過ぎて急坂を下ると開けた場所に出た。民家もあり、小さめの畑もある。このあたりだろうか、しかし何の表示もない。そんなはずはないだろう。先ほどの人も表示があるようなことを言っていたはず。



写真の左中ほどが長篠城址で、さらにその奥が長篠の戦いの決戦場である設楽原だろう



鏡岩も見える鳳来寺山(右)と瀬戸岩も見える棚山(左)を見る



本宮山(中央付近)など豊川下流方面を見る

 さらに下るとあった。ここもピークにはなっておらず、ちょっとした平たい場所で、眼下の眺めがいい場所である。鳶ヶ巣山は植林に囲まれていて展望には恵まれていないが、万灯山は眺めがいい。そしてすぐ下には案内板があった場所が見える。やはり下から登りたかった。



万灯山から舟着山を見る



万灯山付近 イヌマキが並んでいた

 この火祭りの由来は、長篠の戦いで戦死した人々を弔うためなのだそうである。昭和51年に、愛知県指定無形民俗文化財にも指定されたようです。

 ところで、ここの万灯山はどこにあるのだろう。「三河富岡」の地形図を見ても現在地がわからない。どうやら一つ北の「三河大野」の地形図になるようだ。今はその地形図を持っていないので、帰宅後確認する。そして、「三河富岡」に載っている万灯山は、別の万灯山であることは確実のようである。ここを「乗本万灯山」、そしてもう一つを「市川万灯山」としておこう。いつかそちらにも行ってみたい。


【鳶ヶ巣山・万灯山が紹介されている書籍】

『三河・遠州の超(スーパー)低山ハイキング』(風媒社)2002年5月12日第1刷発行
  「鳶ノ巣山」のページに「乗本万灯山」も登場します。

『東三河の山々に魅せられて』(豊川印刷株式会社出版事業部)2003年10月10日第一刷発行
  「乗本まんどう」が東三河の三大火祭りの一つとして紹介されています。

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